豊原国周:明治天皇と昭憲皇后(2枚セット販売)

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絵師:豊原国周
タイトル:明治天皇と昭憲皇后
シリーズ:今様美人写真鑑
日付:1881年

大首絵には西洋風の髪型と髭、軍服を身にまとった30歳の明治天皇が描かれています。この絵はおそらく新年を祝う一環として描かれました。肖像画は舶来の力強い赤色をした額縁で飾られています。シリーズ名にある「鑑」という漢字は「理想的な姿」や「模範」を意味します。この作品には以下のような賛辞が添えられています。”君が代ぞ 天の生む まれに きこゆ”(陛下、貴殿の統治はまるで天から生まれたかのように得難いものです)

およそ700年に渡り日本を統治してきた幕府でしたが、1867年10月14日の大政奉還で第15代将軍・徳川慶喜は明治天皇・睦仁(1852-1912)に政権返上を奏上しました。同年12月9日には天皇を中心とする明治政府樹立が宣言されます。(王政復古の大号令)

これにより封建的な制度は近代的な政府、すなわち啓蒙された統治を意味する明治時代へと移り変わりました。明治天皇自身は直接政令を執行しなかったものの、1912年明治天皇の治世が終わるまでに明治天皇の名で発令された法令で西洋のモデルから学んだ新しい政府が完成されました。
西郷隆盛率いる薩摩軍と明治政府とが戦った西南戦争(1877年)は薩摩郡の敗北に終わり、その後、明治政府は国を安定させ天皇を象徴として統一しようとしました。
「天皇自身が版画に描かれるという事実は、明治時代以前の伝統との断絶を示していた」(トンプソン・1991年)
この作品のような印刷物は天皇を人々により身近に感じさせるために使用されました。天皇の最初の木版画は1976年福井への公式巡幸の際に作成され、1870年代後半に多くの版画が続きました。これらの版画は皇居での天皇を描いた「御所絵」と呼ばれるカテゴリーに分類され、天皇と皇族の公の活動を世に示す重要な印刷物となりました。
「御所絵」のひとつである「展覧絵」では天皇皇后両陛下が日本の貴族階級とともに催し物や祭り、展覧会や演奏会、劇場のこけら落としなどへ訪問する場面が描かれました。これは1880年代から1890年代にかけて国民の帝国権力への忠誠心を育む戦略のひとつでした。

天皇の公式な肖像画の必要性が避けられなくなり、1873年に天皇は内田九一によって写真撮影をされました。また1875年に大蔵省紙幣局を指導するために来日したエドアルド・キヨッソーネ(1833-1898)は紙幣の印刷局で天皇をコンテでスケッチし、それをもとに「御真影」が制作されました。軍服姿と民間の服を着たものが1枚ずつあり、これらは天皇の公式な肖像画として配布されました。

「御所絵」の特徴のひとつとして舶来の明るい赤色の色使いがあげられます。紫、青、緑の化学合成色は西洋からの新しい色であり明治政策の精神を象徴するものでした。

和歌は天皇が人々にアプローチする伝統的な方法でした。父である孝明天皇(1831-1866)の教えの下で6歳の時から和歌を詠んでいたといわれています。明治天皇に即位した際、和歌は国の長としての思いや願い、また武士やその家族に対する個人的な関心、そして人々に対する誠実な思いや同情を示す手段でした。
睦仁天皇は歌人として知られ、93,032首もの和歌を詠み、そのうち1,687首が後に「明治天皇御集(1922)」として発行されました。
また明治天皇は年の始めの歌会として催される「歌御会始(うたごかいはじめ)」の定着に貢献しました。1869年1月に皇族、著名人および宮廷関係者を集めて初めての「歌御会始」が開催されました。1874年には一般の人々が和歌を送ることが許され1879年にその中から選ばれた和歌が公開されました。
この版画が作成された1年後の1882年には天皇の和歌と一般の人々から選ばれた和歌が新聞に掲載されました。

天皇在位の初期、明治天皇の歌道師範だった三条西季知だけが、天皇の和歌を詠むことを許されていました。しかし三条西が死去した後、御歌係長に任命された高崎正風は自らの命を危険にさらしながらも日露戦争(1904)中の国民に対する「教訓的な御歌」として天皇の和歌を新聞などに掲載しました。

国周はおそらく出版社から1881年の新年に皇室の肖像画を描くように依頼されました。
1000年以上にわたり、天皇皇后両陛下の肖像画は禁止されていました。
この版画は明治天皇皇后両陛下の数少ない「大首絵」のひとつであり非常に希少です。
佐藤グルーブ道子氏の研究に感謝します。

コンディション:色合い、状態ともに非常に良好です。薄い裏打ちと不鮮明な日本語が裏面に記されています。
寸法:大判(35.3× 24.8 cm)
サイン:豊原国周筆

SKU: KCA089B